hisnd's blog

夢は海辺でぼんやり海を見ながら暮らすこと。

タイで感じた先進国の当たり前の怖さ

今日の朝、強烈な衝撃を受けた。

突然だが私は今、治安が良くないいわゆる途上国で働いている。 

日本人の私は今日の朝、ある国からタイに入国した。その際、ある国の人達に対して、入国審査が異様に長い気がしてイライラ、、前にならんでるある国の人たちもイライラ、、こういうのが憎しみの種になるんだろうかなんて思いながら。
日本人の自分の入国審査がわりかし早く終わったことに関しては日本のパスポートだから当たり前だと心の何処かで優越感に浸ってたことに、自分自身この時にはまだ気が付いていなかった。

入国審査を受けトランクを受け取った私は朝ごはんに途上国では食べられない魚卵を食べようと空港の寿司店に入った。久しぶりの魚卵やお寿司に本当に癒された。その時私の財布には途上国のお金しか入っておらず、当然タイバーツしか使えないので、クレジットカードで支払うことにした。いつもサインでの支払いしていたので、PINコードを聞かれて焦った。数回間違う。そしてカードが通らなくなってしまった。カードが使えないとなるともう一枚のカードとなるはずが、私は管理の容易さからカードを一枚しか持っていない状況(更新期間とかもあるし、海外ならマジで2枚カードあったほうが良い)。タイバーツは手元になく途上国の通貨しかない。完全に支払いができない状況に陥った。本当に変な汗をかいた。これでは食い逃げだ。日本なら警察に連れて行かれるだろう。

だのに、だ!タイの人は毎回本当に心から思うが、なんて穏やかで優しいのだろうか、、!私のために途上国の通貨をなんとかタイバーツに両替できないか一緒に空港内の両替所に聞いて回ってくれた。しかし、だ!どこも返事はノー!ピンチすぎ。挙げ句の果てに、タイ人の女性に、タイバーツですら海外に出るときは現地で両替できないのわかってるから、ドルに替えていく!途上国通貨の両替ってそういうことだよ?なめてんの?と怒られた。

その時だった。自分の不知が恥ずかしいと思うと同時に、なんて不公平で悔しいんだろう。と思った。途上国の通貨であっても数字上は両替され得るはず。なのに、途上国のお金は両替され得ない。なぜなら、両替しても価値が無いからだ。考えればすぐわかる。それ故途上国の人々は強制的に自国でドルにして海外でドルから現地の通貨に換金する。それは確かに常識なのかもしれない。けど!それって最初から同じ土俵で貨幣を扱われる事を諦めてないか?と思った。小さなことだし大げさだと思うけれど、自分が途上国の通貨しか持っていなくてどの両替所でも両替を断られたのを実際に経験して実感としてわかったから本当に衝撃が大きすぎた。幸い私が銀行の小切手からドルを入手して待たせて迷惑かけてしまったものの支払うことができた。本当に警察沙汰になり兼ねないのにタイの人達の優しさに感謝。

今回の衝撃はなんとか解決できたものの、そうやって偶然生まれ出た国の違いで諦めなきゃいけないこと、たくさんあるという事実の重さに今更ながら気付く。途上国の同僚は海外旅行に行きたいというがVISAが取れないという、彼女は凄く良い人で私より英語が堪能で仕事ができる。なのに、日本人の私の方が格段にVISAが簡単にとれている、この差ってなんなんだろう。不合理だと思ってしまう。

確かに複雑な問題が沢山あって今の帰結に至っているんだろうけどそれにしても途上国から来ただけで、不合理に出会う、偏見の目で見られる、本当に考えが及ばないほど悔しい悲しいと感じることがあるだろう。だけどどうしようもない。
そんな人達が世界の多数派で日本で生まれた人なんて本当に少数派だよな。

たまたま現代の日本に生まれ落ちた私はラッキー以外の何物でもない。恵まれてる分やるべきことがあると思った。

新装版ソラニンを読んだ

読み終えたら平日の夜中の2時だった。

ソラニンを読むのは何度目かだし、もうオトナだし、明日仕事あるし、お風呂でkindleにいれて読むし、すでに0時半だし、
きりのいいところで終わろう。

と思っていた2時間前の私はいつの間にか冷めたオトナに近づいた私だった。

久しぶりにソラニンを読み始めたら、あの頃の青臭いワタシを呼び戻してくれたようで、明日仕事というオトナの事情なんて飛び越えて私をあの頃に連れていってくれた。

ワタシがソラニンに出会ったのは丁度大学生の時で、出版は既にされて数年経っていた頃で、暇をもてあました平日の昼下がり、青臭いキッズ達をあおるビレバンの売り文句につられて買ったのを今でもなぜだか覚えてる。
確か帰りの阪急電車で一気に読んで、一気に好きになった。漫画を買わないワタシにとって珍しい事だった。少しだけ自分も何者かになれると思ってもいいんじゃないかって勇気を貰った。
それから大学を卒業するまで同じ作者さんの少し空気感が似た短編集を数冊買って、大学卒業で独り暮らしのワンルームをでるときに、古本屋さんに売った。
古本屋さんに売ってしまったことを卒業後、何度も後悔するのだけれど、売った当時は、本当にお金がなかったし笑、オトナになる準備だ!なんて思って売ってしまったようにおもう。
私が大学生の時にソラニンにはまったのは、青臭くヌルい空気感が私の大学時代そのものと被り、そしてそれがまもなく終わる一つの青春という季節なんだという事をちょっと先回りしておしえてくれた留年中の先輩みたいで慕わずにはいられない存在だったのだけれど、大学卒業という節目に一旦距離をおかなきゃいけないような存在でもあった。

あれから数年、私は今月末、あの頃の夢を1つ叶える。なのに、少し不安も感じている。

なんとなく自信がなくてフラフラしまくってたあの頃のワタシに「大丈夫!!存分に楽しめ!なんとかなる!し、本当に好きなこと腐らずやりつづければ、夢叶う!!ただ、若さは一瞬だからもうちょい濃く生きるのがおすすめ!!!!」と声を大にして言ってやりたい。今の私にも。

そんなことを思わせてくれたこの漫画はマジで名著だとおもう。いつか子供が出来た時のために、しっかり紙媒体も買うと思う。笑
おすすめ。

さすがに、おやすみなさい。笑

ソラニン

ソラニン

iTunesアジカンも掘り出したくなった午前2時。笑

私の生きてる意味

生きてる意味なんて人それぞれだから、ここに書くのは、あくまで私自身の考え方だ。

 

私は、生きてる意味をたまーに時間がある時に考えてみたりする。

大概それは答えが出なかったり、ぼんやりと輪郭がつかめた気がしても、ネガティブに引っ張られてその日一日落ち込むなんて事も、我ながら、徒労だ。笑 と思う。

だけど、ごくたまに、意識して生きてる意味なんて考えようとしてない時に、なんとなく、生きてて良かったと思う場面に遭遇してきた。

そして、多分、私は、そういう場面が何度かある人生に生きる意味を見出してるんじゃないかな。と最近思うのだ。

 

正直なところ、人生は、思っている以上に短いし、学生時代を通り過ぎれば、責任とお金の問題なんかで、だんだんと息苦しい状況に追いやられるものなのかなと少し思ってるとこもある。

 

だけど、

ごくたまに、

母と父の愛情を感じた時。

姪っ子と遊んでいる時。

母になった姉が自分の母親の姿と重なった時。

恋人と他愛なく笑いあった時。

昔の友人と昔話で笑い合った時。

そんな時にとても

あぁ生きてて良かったんじゃね?とぼんやりと思うのだ。

疑問形になってしまうところは惜しいところでもあるかもしれないけど、大概確信には至らないぼやっとした感覚。

 

だけど、私はそんな感覚を持てる人生を生きている事自体に意味があると思うし、ありがたいと思う。

 

書いていてつまらない文章だなと思うけれど、こういった事が私の一番好きな事なのかもしれない。

 

つまらない日常のつまらない事に幸せを感じる事が、私の幸せで、生きている意味なのかもしれない。

 

なんて秋の夜長に思ってしまうところが相変わらず痛いと言われそうだけれど、それが、私だ。

 

これからも私だけの私の人生を大切にして生きたいのだ。

以上。

シングルの何が悪いのか。アラサー独身女が、考えてみた。

まず、結論として、私個人としては、シングルは悪いと思っていない。

なぜなら、私自身が、他人に合わせる事を苦手としていて一人で動くことが好きなこと。が一番大きな理由だ。

ただ、他人とうまく歩幅を合わせていてすごいなぁって思う人なんて周りにたくさんいるし、あくまで個人的見解。

 

だが、しかし!30を目前にして、『わたしは、このままシングルでいいのか問題』が浮上してきたので、私の偏った個人的見解をもとに、ここで考えてみたいと思う。

まず、簡単に経済面・社会面の二側面から簡単に考えてみる。

 

1、経済面

なんだかんだお金って大事だよね。ってことでここから笑。

まず、シングルなら、(家賃は場所・人によってだいぶ差があると思うから考えないとして)生活費は、月給の約半分くらいだろうか。

そこが、夫婦になると、(家賃)・生活費は、折半になることが多いと思う。となると、単純に余ったお金は貯金に回すことができる。これはでかい。

ただ、細かい話をすれば、二人で住むなら、良いとこに住もうとするだろうし、お互い働いてれば、世帯収入は増えるから、税金が高くなったり、かたや家事に専業すれば、控除を受けられることもある。一長一短の面もあるかもしれない。

けど、やっぱり自分本位な考え方かもしれないけど、自分が病気になったら、両親が病気になったらみたいな事を考えた時に、セーフティネットになるのは、旦那さんという安心はあるかもしれない。そこはこの時代大きいか。

 

2、社会面

親等に、結婚を心配されなくなる。一人の大人として認めらる(気がする。被害妄想の範疇?笑)。

まだなってないけど(あくまでまだ20代である事を強調。笑)、実際に30を超えてシングルだと、いくら時代が進んだとはいえ、誰かからは、「結婚しないの」と絶対に聞かれると思う。会話の話題としては、言われた本人の気持ちは抜きにして、ある程度盛り上がる話題だし、そこに興味を持つ人の心理っていうのもわからなくはない。だけど、それを知ってどうすんだと思う気持ちもある。私自身聞かれたら、相手がいないからっていう自分は惨めだと思うし(かたや、変な人はまだ選んでいないという自負もあるが、実際に未来の旦那が良いやつかどうかなんて蓋を開けてみないとわからないから、ただの負け惜しみかもしれない笑)、大して心配もしてないのに、興味本位に人の心をかき乱して行くなよ。と思う。けど、だからと言って、変に気を使われるのも嫌。大変に扱いにくい人種。それがアラサー独身女なのかもしれない。だけど、この聞いたことある内容って、雑誌とかテレビとかに入れ込まれてるイメージではないか?っていう事。

 

私は、声を大にして言いたい。

幸せなんて、人それぞれなんだから、私には私色の幸せがある!実際たまに感じる笑。と。

誰にも干渉されずに寝て過ごす休日とかね笑。

 

【まとめ】

シングル。この言葉には悲観的なイメージがつきものだが、それは社会的なイメージであるという事。

だから、気にすんな自分。って事。

 

あと、上の二つの側面の見解は、夫婦が死ぬまで仲良く連れ添った場合だ。途中で、離婚ともなれば、調停・もしくは裁判費用、不倫などが原因ならば、慰謝料なんてのも考えられる。恐ろしや。

また、残念なことにパートナーが病気になって、介護等が必要になれば、もちろん金銭的な負担は増えるだろう。し、精神的な負担も増えるかもしれない(介護による絆の深まりとかも、もちろんあるのだろうけど、難しい問題であることに変わりない)。

何事にも一長一短がある。そのバランスが取れるかが、個人にかかってて、ケースバイケースで一つの定理なんて示せない。って事だ。

 

つまり、グダグダ長く考えてきたが、こういうものは考えても仕方ない。結婚するとき、離婚するとき、来るべき時が来れば考えるというのが、一番合理的なのだというオチに落ち着く。

そして、なんかしら、不安な人はこうやって誰かに話す場を設けると自分の頭の中身が整理されてスッキリすると思う。現に私は今、とてもスッキリしている。

同じようなシングルさんいたら、遠慮なくコメントなどもらえたら嬉しいです。

周りにやたらと言われる気がするけど、被害妄想・自意識過剰かもしれないし。

まずは、お互い日々を楽しみましょう。^^またね⭐︎

 

プリーズライクミー【Netflix】辛いときほど観るべし

正直最初は期待してなかった。

シーズン1の前半が全然面白くなかったからしばらく放置していたぐらいに!

けど!!
シーズン2,3,4と最終話まで右肩上がりとはまさにこの事!ぐらいに面白くなっていくんです。

詳しくはネタバレになるのであえてかきませんが
(ネタバレはもったいない。出来れば見て頂きたい)
この物語を面白くしてるのはジョシュ(主演で監督→GIRLSのレナ・ダナムとかぶるところ多くよく比較されているみたい→個人的に比較する時間があるなら両方観ちゃうべし。っておもう笑どっちもいいからね。)の愛嬌&日常の切り取り方が上手くそこをドラマではなくよりリアルにちかづけているとこだとおもう。

主人公ジョシュ周辺が良い感じにリアルで共感しまくりなのだ。あとlgbtだ白人だアジアンだってあんま関係無くみんな人間で同じようなことで悩んだり、変わんないべ?っていうのがドラマ見ながら共感しまくることでちょっと体感できるとこも好きだ。

なんにせよ、とにかく主人公ジョシュは悲しいことも辛いこともしっかり向き合って、けど前向きにフワッと乗り越えてしまう。
そこに観ている人は勇気をもらうし、そこにこのドラマを観る価値があると思う。

秋の夜長に悩める全ての人にオススメです!

東京にいて思うこと

東京にいて思うこと

 

やたら車が偉そうでブランド物を誇示する人が多い。

 

負けず嫌いの人が多い。

 

駅のベンチでずっしり俯いちゃう系のリアルに病んでそうな人が多い。

 

そう。私は、東京が嫌いだ。

 

人間の欲が溢れかえってて、かえってそれが人間らしさを失わせて

家畜のようにぎゅうぎゅう詰めの電車に乗っても何とも思わないような人間を作り出しているように思うから。

 

ただ、たまーに。東京もいいかもな。と思うことがある。

大概それは、誰かの弱さを見たときだ。

私が思うに、多分ここにいる人たちは、自分の弱さや小ささを隠すことに必死なのだ

 

どこも人が溢れている中で生活すると

「自分」というものが随分薄まってしまうように感じる。

 

だからこそ、高級車やブランド物で、他の人と差別化し、「自分」を際立たせる。

埋もれないように、他人に負けないように、必死になる。

そこが合わなくて気を病んでしまう人もいる。

1000万人以上いるのだから多様で当たり前だ。どんな人も受け入れられやすい器がある

 

ただ、そういう現象がわかりやすく現れている街なんじゃないか。

 

そう思うと、「自分」が薄まらないように、日々頑張っている人たちが、いじらしく。

応援したいような不思議な気持ちになる。

多様を受け入れる大きな器にも気づく。

 

東京は、中で埋もれてしまえば、息苦しさしか感じないけど

俯瞰してみれば、とてもいじらしく、時にとても優しい街だと思うのだ。

 

そんな時に、東京もいいかもしれない。なんて、

 

誰にいうでもないけど、少しホッとした気持ちになる。

変わっている。という評価。

最近、思うことは、人は、自分の立ち位置を把握したいときにこそ、人は誰かを評価する傾向にあるのではないかということ。

誰しも自分自身を測る絶対的な自信なんかないからこそ、しっかりと誰かを評価した上で、どこかで自分と比較しているところがあると思う。

 

私は、「変わっってるね。変だよ。」などと、たまに猛烈に評価される時がある。

正直、そんな言い方されるとこっちは堪える。だけど、よく考えたら、評価してる本人は、自分は正しい。普通であると、猛烈に自分を正当化してる前提で、相手を自分【普通】と比較して、変だと評価しているのだ。そして、評価してる人にとっては、【普通】であることこそが、善なのだろう。

 

ただし、私は、ここで、言いたいのだ。評価してる方は、自分が【普通】であることに喜びを感じているのかもしれないが、そんなこと私からしたら、糞食らえ。であるということ。言葉が汚くなったことはお詫びしたいが、むき出しの言葉を使えば、内心そう思っている。

 

だって、変。の何が悪いのだ。私にとってすれば、普通の方が、よっぽど、悪というか、全くもって面白くない。評価基準とすれば、変の方が、よっぽど高いレベルにあるのだ。

ただ、そんなことを言い始めれば、【普通】の方々から、変の悪さや普通の善を力説フルボッコされた経験があるから、もはや闘うことはないのだけれど。面倒だし。

 

そう、私たちは、違う価値観で生きていることをできるだけ前提としていてほしいということを、私は言いたいのだ。

 

私の価値観の中では、変>普通。ただ、それを(こうやってブログに書くことはあっても)誰かを目の前にして、それを振りかざして評価することは辞めたつもりだ。そんな評価という不毛な議論よりもすべきことが世の中には、たくさんあるのだ。

 

高級レストランで、ダイエット中だからと、最後のデザートが半分残されている国があれば、1週間まともに食事にありつけない人もいる。そんな空の下に生まれているんだから。何かもっと成し遂げたいと。今はたいそれたことを考えている。